2017年6月9日金曜日

小説を書くということ ~普通の人があまり知らない小説家の苦悩~


22週目を超えている嫁は今日、朝から美容院に行き、2回目のママさん教室に行き、そのあと仕事に行くと言う。

妊婦の身体の事情はボクには想像もつかないが、なんともバイタリティー溢れることこの上ない。

そんな中、ボクは通常の放送作家業をこなしながら小説も書いている。

今日は、恐らく初秋には出版されるであろう新刊の改稿作業。

しかしなんというか、これまで出版した小説は、まぁ、売れない。

『売れない小説家』というのは月並みなワードだが、まさにその通りの道を邁進している。

それでも書き続けるのは、やはりいつか、自分の物差しとして限りなく100%に近い小説を書きたいと思っているから。

書きたいことがまだまだ山のようにあり、答えのない職業をしているからこそ、その答えを探しているのだと思う。

しかし、小説というのは、とにかく細かい。

ボクは細かい作業が嫌いではないので、というか、バラエティの台本にしても、ドラマの脚本にしても、細かすぎるぐらい見直す。

それでも小説が一番細かいだろうなと思う。

バラエティ番組やドラマは台本や脚本が表に出ることはないので、そりゃそうか。

たとえば――

「からだ」を、〝体〟と書くのか〝身体〟と書くのか。

小説によって変える人もいるが、ボクの小説ではすべて〝身体〟と書く。

ただ難しいのが、たとえば文中に「身体検査」というワードが出てきたとする。

ずっと〝身体〟を「からだ」と読んでいた読者さんが〝身体検査〟を「からだけんさ?」と読んでしまわないとも限らないなぁ、と気にしたりもする。

そのあとすぐに「ああ、しんたいけんさ、か」とわかるだろうが、その瞬間は物語とは別の思考が生まれてしまう。

その一瞬の思考の途切れがボクは、嫌だな、と思う。

ではなぜボクが〝身体〟と書くか。その理由は、カッコ良さそう、だから。

又、「〇〇したときに~」で、「とき」を〝時〟と漢字表記にするかどうか。

これは、「〇〇の様な~」の〝ような〟とか、「〇〇した事が~」の〝ことが〟とか、「〇〇のほうが~」の〝ほうが〟にも通ずる。

漢字だけ見ると、時、様、事、方、となる。

そう、これらは音読みと訓読みの両方を多用する漢字なので、使い方が難しい。

時(とき)は、「午後4時~」とか、「そんな時間に~」とか、〝じ〟として使うことのほうが多い。

事(こと)も、〝じ〟で使うことが多い。

方(ほう)に至っては、〝かた〟とも読むが、「この方が~」のときには、〝ほう〟でも〝かた〟でもちゃんと意味が通ってしまう。

まぁ、前後の文で読み方は大体わかるとは思うが、読んでいていちいち「あれ? これどっちだろ?」なんて思う小説は途中で読むのをやめてしまうだろう。

ただ、「午後4じ」や「仕ごと」や「一ぽう通行」にしてしまうわけにはいかないので、必要最低限の使い方はしつつも、単体で出るときはすべてひらがな表記にしている。

しかししかし、ひらがなが多い小説もまた、「陳腐な小説だな」と嫌われてしまう傾向にある。

そんなことを細かく考えながら、また売れない小説をシコシコと書いている。

ただ、そんな自分が嫌いじゃない。

ちなみに、訓読みの訓は音読み。

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